今年は酷暑、、、

今日これから、台風がきますので、風雨が強まっていす、、、、

西日本豪雨の被災地には台風の影響がないことを思いますが、

今までは関東は雨が降っていなかったので、発表とかありませんが水不足はどうなのかなとか思います。水瓶、ダムのある地域では降水量あることを願います
世界を見回すと、異常気象で各地で山火事が起きたりしています。

と、いうことで、今回は江戸時代、、、消防のお話
「火事と喧嘩は江戸の花」
それだけ火事が多い町、、、江戸

江戸は100万人を超えるその当時では、世界最大の都市でした。
それほど、多くの人が住む町の建物は木造、人口密度も高く、ひとたび火事が起こると、大火になったようです。

有名なのは、江戸三大大火【明暦3年(1657)の明暦の大火、明和9年(1772)の明和の大火、文化3年(1806)の文化の大火】
を始め幾多の大火は、復旧復興は徳川幕府にとって、大きな財政負担になりました

第8代将軍徳川吉宗の時に、幕府財政を立て直すため、いわゆる「享保の改革」が進められました。暴れん坊将軍です(笑)
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折しも儒学者荻生徂徠が「江戸の町を火災から守るには、 町組織による火消し組が必要」と進言し、これを受けた時の南町奉行大岡越前守忠相は、 享保3年(1718)に町火消しを作り
享保5年(1720)には隅田川の西側を受け持つ「いろは四十八組」、 東側の深川・本所を受け持つ「深川本所十六組」を編成し、本格的な町火消し制度を発足させました。
江戸町火消し


そのときにそれぞれの組に火事場での目印として 纏(まとい) を作らせました。
纏は火消し組のシンボルとして欠かせないものになりました。
纏


火消しの当然、消火もしますが、燃え移らない為の建物の壊しも重要な仕事。
鳶職経験者が多かったようです。

余談になりますが、
その為、壊しやすく、普及しやすい木材、工法が用いられ、復興の為に今の木場(木材)にストックし
短期間で建て直し、、、その大工の集団(組)が鹿島建設の前進、鹿島組(屋号 大岩)だったりします。

Q・・・・町火消しにはいろは四十八組にへ組、ら組、ひ組、ん組がない理由は?
A ・・・「へ」は屁、「ひ」は火、「ら」は隠語、「ん」は終を表すという理由で、 「へ」は「百」、「ら」は「千」、「ひ」は「万」、「ん」は「本」に変えられました。

Q・・・・ 大岡越前守忠相が考案した纏とは?
A ・・・・い組の纏

Q ・・・・江戸の大火とはどの程度の規模だったのか?
A ・・・・最も大規模と言われている明暦3年(1657)の「明暦の大火(振袖火事とも言われる)死者約10万人」では、強風に煽られ江戸の町大半に延焼が広がり、江戸城天守閣も失いました。
江戸城天守閣はこれ以降再建されることはなく、復興に力を注いだのは有名な話しです。
明暦の大火における死者数は約10万人と言われています。
元禄16年(1704)の「水戸様火事」では、小石川水戸屋敷から出火し、焼失した武家屋敷275,寺社75,町家20000,死者数は不明、 明和9年(1772)の「明和の大火」では、目黒行人坂大円寺から出火し、焼失した町数が904,死者数約14700、 文化3年(1806)の「文化の大火」では、芝車町から出火し、焼失した町数530,大名屋敷80,寺社80,死者数1200と言われています。

Q・・・・当時銭湯がはやったのはなぜか?
A・・・・当時の一般の町人には風呂を備える経済的な余裕はありませんでした。 家も狭く、これといった娯楽施設があるわけではなく、銭湯が庶民憩いの社交場だったのでしょう。また、 風呂を持つと失火の危険が高まり、世間から火元と疑われるのを避ける風潮も強かったと言われています。 徳川幕府が、火災防止のため様々な通達を行ない、火事の原因となるものを禁じたりもしました。 たとえば、承応2年(1653)には湯屋、風呂屋に対して、暮六つ(午後6時ごろ)までしか風呂を焚いてはならないとか、 翌朝まで風呂の水を抜いてはならないという令が出されました。 花火についても、慶安5年(1652)には、隅田川以外での打ち上げが禁止されたりもしました。 それ以来花火といえば隅田川となり、次第に庶民最大の娯楽となっていきました。

火事は一度燃え広がると被害が大きい災害です。100万人の江戸の町の火消しは貢献を考えると、とても重要な組織だったんですね、、、、、、